慶応三年三月

正面に座る人は常以上に眉間に皺を刻んでいた。
「本当について行くつもりか?」
低い声で呻いたその人に、一は静かに頷き返した。
「俺が、伊東さんに付きましょうと言いました」
「で、誘いに応じてホイホイついていくってか」
それでも、相手の眉間から皺は消えない。むしろ、苦渋に満ちていると言って差し支えない顔になっている。
「土方さん」
そこを呼ぶと、はあっという溜め息が返ってきた。
「恨まれることになるぞ」
そう言って、土方は紫色の眼を細めた。
「どんな結果になっても、恨まれるぞ。それも、皆から」
「俺が決めたことです」
静かにその視線を受け止めると、土方はがりがりと首の後ろを掻いた。
「なら、止められねえってことか」
もう一度、溜め息が響く。
それに対して、畳に額を擦りつけんばかりに、頭を下げる。
「達者でな」
その声を背に部屋を出た。
明るい縁側を静かに進んでいく。それから、濁りのない青い空気の中を舞う花びらを見つけた。
見回せば、庭に立つ木々は薄紅に染まっている。
すうっと目を細め、一は一際大きい桜の木の下に歩いて行った。



息せき切って走って、ようやく見つけた、と千鶴は足を止めた。
その人ははらりはらり舞い落ちる花の中で真っ直ぐに立っている。
「斎藤さん…」
掠れた声で呼ぶと、振り返ってくれた。
その静かな顔は、朝と、いつも見てきた顔と変わらない。
――何も、変わらない。
唇だけを震わせて、一言も発せずに立ち尽くしていると。
「聞いたか」
先に斎藤が口を開き、仕方なしに千鶴は頷いた。
「…ここを、新選組を出て行くと」
最期の言葉は曖昧に掠れさせたのに、斎藤はしっかりと首を縦に振った。
「…そうだ」
頬を引き攣らせながら、千鶴は斎藤を見つめた。
「本当に…?」
出て行かれるのですか、と叫びかけて、千鶴は両手で口を覆った。
斎藤は僅かも身じろぎしない。何度も瞬いてから、ようやく出てきた声は。
「どうして、新選組を離れることにしたのですか…?」
掠れた問いかけの言葉。
「自らの志にそぐうと感じて、伊東派に属することに決めた」
なのに、戻ってきたのは全く揺らいでいない声。
「こころざし」
ゆっくりとその中の言葉を言い直すと、彼もまた言葉を続けた。
「志の前には、新選組隊士とのこれまでの情もすべて切り捨てるつもりだ」
「そんなの… ひどいじゃないですか。今まで一緒に頑張ってきたのに。それなのに……」
ギュッと拳を握って、見上げる。その先では声だけでなく視線も揺れていない。
「ずっと一緒に頑張ってきたから、だからこれから先も一緒に、か。おまえは志がどうだろうと、行動を共にし続けるべきだというのか? 情に流されて己のなすべきことを見失う。それでは本末転倒だろう」
「で、でも…… そんなに簡単に割り切れるものなんですか? 斎藤さんは…」
小さく息を切ってから、千鶴は真っ直ぐに彼を見つめながら、ゆっくりと口を動かした。
「斎藤さんは悩んだりしないんですか?」
斎藤は首を振る。
「しない」
「そんなのって……」
思い出も、共に過ごした時間も嘘になってしまうようではないか。
千鶴もまた首を振って俯いた。
さあっと風の音だけが響く。
「何度目だろうな。こうして京で見る桜も」
その中を響いた声に釣られて、そろりと顔を上げた。
無数の花びらが舞う中に斎藤は左手を伸ばして、その一つを掴まえた。
指先のその花びらを見つめて、彼が口を開く。
「時が移ろう中で様々なものが変わっていく。世の中の動きも思想も、そしてこの新選組も…」
「私たちも…… なのでしょうか?」
千鶴は眉を寄せて、真正面に向き直った。
すると、斎藤も顔だけを向けてきた。だから、紫紺の瞳を真っ直ぐに覗き込んで。
「私たちが、新選組が変わってしまったから。斎藤さんはここから去ってしまうんですか?」
言うと。
「それでも何もかもが変わってしまうわけじゃない」
彼は緩やかに首を振った。
「時代の移り変わりと共に変わるものもあれば、変わらないものもある」
そうして、微かな笑みが口許に広がるのを見た。
「――俺は… 変わらないものをこそ、信じている」
「変わらないもの」
言って。千鶴はギュッと両手を握り締めた。
――決めてるんだ。
何を、かは分からない。ただ、進んでいくことを決めている。それは自分如きが何を言っても覆せないほど、強く。
――信じるもののために。
喉の奥から呻き声が上がりそうになるのを必死に押しとどめて。
「……斎藤さん」
呼んで、両手を差し出した。
「その桜の花びら、私にください」
すると、斎藤は軽く目を見張った。
「……どうするつもりだ」
「どうもしません。ただ、取っておきたいんです」
――斎藤さんとの思い出の品として。
精一杯の微笑みを浮かべると、彼は首を傾げ、左手を差し出してきた。
「いいだろう…… ほら」
ふわり、と花びらが掌に落ちてくる。
「ありがとうございます」
そっと両手で包み込んで、千鶴は言った。

それから、去っていく背中を見送って。
声を押し殺して泣いた。
ボロリと零れた涙が足元を濃く染めていく。
それを見ないふりして、千鶴は掌の中の花びらを見つめた。
――この色だ。
残された花は紅、恋の色。
――私が斎藤さんを想う色。