慶応三年三月

「雪村」
低い声に呼ばれて、千鶴は頬を緩めながら振り向いた。
思ったとおり、いつもと変わらぬ黒の着流し姿が戸口に立っている。
「おはようございます、斎藤さん」
笑うと、彼は頷き、台所へと入ってきた。
「……一人で片付けたのか?」
「はい。ごちゃごちゃのままじゃ、お料理できないと思ったので」
「それはそうだが…」
倒れた水瓶も割られた食器も片付けて、いつも以上にすっきりしてしまったそこを見回してから、彼は真っ直ぐに千鶴の瞳を覗き込んできた。
「昨夜斬られたと聞いた」
その言葉に心臓が跳ねる。
「傷は……」
「大丈夫です!」
殊更大きい声で言い、千鶴は僅かに視線をずらした。
「もう… 平気なんです」
ぎゅっと脇で拳を握る。斎藤の溜め息が聞こえた。
「無理に動くと傷に障る。困ったことがあれば、副長なりに声をかけろ」
そっと視線を戻すと、紫紺の瞳がまだこちらに向いていて。
千鶴は曖昧に笑って頷いた。
「昨夜のあの人たちは…」
「羅刹だ」
端的な答えに、千鶴も息を吐いた。
「あの人たちも、『血に狂って』…?」
「そうらしい。二人とも斬った。その後は山南さんが始末されている」
「…そうですか」
「問題は、表の方の屯所で暴れられたことだ」
「…あ」
険しい表情になった斎藤を見上げながら、千鶴も唇を噛む。
「事情を知らぬ者があれを見たらしい」
「…伊東さんも、羅刹のことはご存知ないです」
「…そういうことだ」
僅かに目を細めて、斎藤は踵を返した。
その背中を見送りがてら、千鶴は外を覗いた。
朝靄に覆われた屯所は、いつもとおりの朝稽古の掛け声が響いているが、どことなくよそよそしい。
――何があるんだろう?
ぶるっと体を震わせて、両腕で体を掻き抱くと、左手の先が昨夜斬られた右の二の腕に触れた。
見なくても分かる。その着物の下の肌はもう、するりとしている。傷なんぞ跡形もなく消えている。
治りきっている理由は至って簡単。
――やっぱり私は鬼なんだ。
得体の知れない、人ではない何かなのだ、ともう一度身震いした。 自分と昨夜の彼等と何が違うのだろう、と。

解決しない悩みを振り切り、朝食の支度をして、召し上がってもらって。
やっぱりいつもどおりかもな、と思い始めた頃。
「冗談じゃねえ!」
きん、と響く声が聞こえて千鶴は肩を揺らした。
廊下を覗けば、永倉が床をだんっと踏み鳴らしたところだった。
「そんな勝手が許されるわけねえだろ!」
その正面には浅葱色の羽織姿の原田と井上も居る。
脇の柱には腕を組んだ沖田が寄りかかっていて、千鶴に気がついたのは彼だった。
笑顔でひらひらと手を振った彼に、千鶴はそっと近寄った。
「何かあったんですか?」
だが、沖田はにやにやするばかり。眉尻を下げて、見回すと、同じような顔をした井上が長い溜息を吐いた。
「伊東さんが分離すると申し出たんだ」
「……分離?」
「新選組を出て行くってことだよ!」
だんっ、ともう一度永倉が床を蹴る。
目を丸くした千鶴の頭をぽんぽんと叩いて、沖田は哂った。
「局を脱する許さず――のはずなのにねー」
軽い笑い声が響く中で、今度は原田が溜息をついた。
「……そのへんは、近藤さんと土方さんの判断だから、どうでもいいんだよ。問題は……」
と、肩を竦める。千鶴が唇を噛んで頷くと、また井上が憂鬱に息を吐いた。
「藤堂君と斎藤君も、伊東さんについて行くそうだよ」
「……へ?」
思わず、瞬く。
「平助の野郎! 俺たちに一言の相談もしやがらねえで…!」
また、だんっという音が廊下に響いた。



庭をフラフラと歩き回ってまず見つけたのは、平助だった。
庭先の椅子に腰を下ろして足を揺らしているその彼の名を呼ぶと、ゆっくりと振り向かれた。
「千鶴」
その直後こそ朗らかだった笑みはすぐに引き攣る。
「聞いたのか?」
何を、と彼は言わない。千鶴も言おうか否か一瞬躊躇って、ただ頷くだけにした。
「…そっか」
強ばった頬のまま、平助は俯く。
その姿に、床を蹴っていた永倉の、後ろを振り返りつつ巡察に出かけていった原田の姿がちらついて見える。
肩に無意味に力が篭るのを感じながら、千鶴はじっと平助を見た。
やがて、薄らと笑みを浮かべた平助が顔を上げる。
「オレはさ。この国のために何が必要なのか見てみたいんだ」
「国?」
「そ。攘夷も、尊皇も、幕府も… 俺まだ、この国を全部知っているわけじゃないしね」
「…知って、どうするの?」
「この国のためになることをする。…それは伊東さんも考えていることだ」」
は、と息を吐いて、平助は宙を仰いだ。
「それに元々伊東さんはオレが誘ったようなものだし。ここで知らない顔するってのもおかしいなと思うんだよ」
その言っていることは分かるような分からないような。
千鶴は眉を寄せる。
それを真っ直ぐに見つめられ、瞬くと、平助は笑い声を立てた。
「でも、一つだけ分かってくれ。オレはみんなのことが嫌いになったわけじゃない。おまえと離れるのだって寂しくないと言ったら… 嘘になる」
「だったら――」
と口を開いて、もう一度閉じる。
何をどう言っても無駄な気がしたから。
そのとおり、彼は笑顔のまま首を横に振った。
「もう決めたんだ」
「うん…」
無理矢理頷いて、踵を返す。平助が立ち上がる気配がないのを感じてから、千鶴は一目散に駆け出した。
此処を出て行く理由が分かるようで分からない。
彼のことは分からなかったけれど。
――斎藤さんは!?